東京地方裁判所 昭和34年(ワ)5640号 判決 1961年7月13日
原告 荻野澄江 外三名
被告 増井太作
主文
一、被告は原告荻野澄江に対し金六〇〇、〇〇〇円を同荻野浩に対し金四一六、六六六円を、同荻野健美及び同寺山久子に対し各金三六六、六六六円を支払え。
二、訴訟費用は被告の負担とする。
三、この判決は仮に執行することができる。
事実
第一当事者双方の申立
原告らは「被告は原告らに対し金一、二〇〇、〇〇〇円を、原告荻野澄江に対し金二〇〇、〇〇〇円を、同荻野浩に対し金一五〇、〇〇〇円を、同荻野健美及び同寺山久子に対し各金一〇〇、〇〇〇円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、被告は「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を求めた。
第二請求原因
一、原告荻野澄江は亡荻野庫三の妻、同荻野浩は長男、同荻野健美は次男、同寺山久子は長女で、右荻野庫三は昭和七年三月以来東京都大田区新井宿三丁目一、三九六番地において内科・外科・レントゲン科の医院を経営していた医師であつたが後記事故により死亡し、当時満六六歳であつた。被告は増井金属工業所を経営しアルミニユーム再生塊の製造販売を業とし、トヨペツト五四年型四輪貨物自動車を所有して製品運搬等の用に供する者であり、増井貫行(昭和一五年五月二〇日生)は被告の三男であるが被告の指揮監督の下に右自動車を運転し、被告の家業に従事していたものである。
二、増井貫行は昭和三四年四月四日午前八時三〇分頃、東京都大田区内の通称「改正道路(別紙見取図記載B道路)」を品川方面から蒲田方面に向つて、法定の制限速度を超える時速約五〇粁の速度で疾走して来て、右道路と第一京浜国道方面から国鉄線方面に通ずる道路(別紙見取図記載A道路)とが交叉する同区入新井三丁目五九番地先交叉点において、折柄、往診のため自転車に乗つてA道路を第一京浜国道方面から国鉄線方面に向つて進行し右交叉点を通過しようとしていた荻野庫三の自転車に、前記自動車の車体前部を衝突させ、同人を路上に激しく転倒させて同人に頭部打撲による頭蓋内損傷の傷害を負わせ、同日午後二時五分頃、同区大森二丁目一三〇番地、古川病院において、同人を右傷害により死亡するに至らしめた。
三、前記交叉点は別紙見取図記載のとおり、東西に走る車道の幅員一二・〇五米のB道路と南北に走る同幅員五・一米のA道路が直角に交叉する箇所であつて、B道路にはなお車道両側に幅員各七米の歩道が設けられてあるから、B道路を進行する車は同交叉点のはるか前方においてA道路から同交叉点を通過しようとする車や人の動きを容易に見透しできる状況にあり、両道路ともに交通量は少い。
四、一般に交叉点を通過しようとする自動車運転者としては、自己の進行方向において側方から交叉点を通過しようとする車や人を認めたときは、警音器を吹鳴してその者に接近を知らせるとともに直ちに速度を減じて最徐行し、その者の挙動に応じ、何時でも停車して危険の発生を未然に防止するよう万全の措置をとるべき注意義務があるというべきである。増井貫行は当時運転資格を持たず、かつ運転技術未熟であつたにもかかわらず、敢て前記自動車を運転して前記交叉点に差し蒐つたが、折柄、荻野庫三がA道路を自転車に乗つて進行し、同交叉点の手前で一時停止し、右自動車の進路を予め充分見きわめ、安全を確認したうえ徐行して右交叉点を通過しようとしていたのを認めながら、軽卒にも、同人の後方又は前方を通過できるものと判断を誤つて前記注意義務を怠り、漫然高速度で疾走する等の無謀運転をなし、荻野庫三との間約五、六米に接近するに及んではじめて危険を感じ、周章狼狽して急遽把手を右に切つたが及ばず、前記の如く同人に衝突して同人を死亡するに至らしめたものであるから、本件事故は増井貫行の自動車運転上の過失に基くことが明らかである。
五、被告は前記のとおり自己のために前記自動車を運行の用に供する者であるから、その運行により生じた本件事故による損害を、自動車損害賠償保障法(以下保障法と略称する)第三条に基き賠償すべき義務がある。本件事故が被告主張の如く増井貫行の無断運転行為によつて発生したとしても、保障法第三条は所謂危険責任及び報償責任の思想に基いて、民法の不法行為責任の要件を著しく緩和し、自動車事故による被害者の保護を図つたものであるから、同条に所謂「自己のために自動車を運行の用に供する者」とは、その立法趣旨に照らし、抽象的、一般的に自己のために自動車を運行の用に供する地位にある者をいうと解するのが正当であるところ、被告が保障法に所謂「保有者」の地位にある者であることは明らかであるから、被告は本件事故につき同法第三条但書に掲げられる免責要件のすべてを立証しない限り損害賠償の責任を免れることはできない。
仮に、同法の適用がないとしても、前記のとおり本件事故は被告の被用者増井貫行がその職務である自動車運転中その過失によつて発生させたものであるから、被告は増井貫行の使用者として本件事故による損害を、民法第七一五条に基き賠償すべき義務がある。
六、本件事故によつて荻野庫三及び原告らが蒙つた損害は左記(一)ないし(六)のとおりである。
(一) 荻野庫三の得べかりし利益の喪失による損害金三、六一六、五八〇円
荻野庫三は本件事故による死亡当時満六六歳の男子であつて、厚生省大臣官房統計調査部刊行の第九回生命表によれば、右年令の男子の平均余命は一〇年を下らないから、同人は将来なお一〇年は生存できた筈であるところ、その年収は金六九四三四九円、年間生計費は金一五二、三六四円(昭和三四年一月現在東京都標準世帯家計調査報告中荻野庫三の収入に相応する者の生計費と同額)、所得税額は金八六、七八〇円であつたから、右年収から右年間生計費及び所得税額を控除した一年間金四五五、二〇五円の割合による将来一〇年間の純益金四、五五二、〇五〇円が同人の将来得べかりし利益であり、同人はその死亡により右利益を喪い同額の損害を蒙つたこととなるが、これをホフマン式計算方法により年五分の割合の中間利息を控除し、本件事故発生当時における一時払額に換算すると頭記金額となる。
(二) 荻野庫三の慰藉料金五〇〇、〇〇〇円
又、同人は本件事故により不慮の死を遂げるという人生最大の不幸に遭遇したもので、負傷から死亡までの間に蒙つた精神的、肉体的苦痛は計り知れないものがあるからその慰藉料は頭記金額を相当とする。
原告らはいずれも荻野庫三の相続人として同人の有した右各請求権を相続により取得したものである。
(三) 原告荻野澄江の慰藉料金三〇〇、〇〇〇円
右原告は本件事故により突如として最愛の夫を奪われ、現在その精神的打撃により絶望と悲嘆の裡にあるが、幸福平穏な生活から一転して寡婦として索莫たる余生を送らなければならない不幸な境遇に陥り、その精神的苦痛は遺族中最大であつてその慰藉料額は頭記金額を相当とする。
(四) 原告荻野浩の慰藉料金二五〇、〇〇〇円
(五) 原告荻野健美及び同寺山久子の慰藉料各金二〇〇、〇〇〇円
右原告ら三名はその父を不慮の死によつて失い、それぞれ甚大な精神的苦痛を蒙つたが、就中、原告荻野浩は自らも医師として数年来荻野庫三を補佐し、医院経営に協力していたもので、荻野庫三は右原告にとつて医術の指導者で、かつ医院経営の支柱でもあつたからその死亡による精神的苦痛は特に大なるものがある。よつて、右原告らの慰藉料額はそれぞれ頭記各金額を相当とする。
七、よつて、第一次の請求として保障法第三条に基き、第二次の請求として民法第七一五条第一項に基き、被告に対し、原告ら四名は前項(一)のうち金一、一〇〇、〇〇〇円及び同(二)のうち金一〇〇、〇〇〇円合計金一、二〇〇、〇〇〇円、原告荻野澄江は同(三)のうち金二〇〇、〇〇〇円、原告荻野浩は同(四)のうち金一五〇、〇〇〇円、原告荻野健美及び寺山久子は同(五)のうち各金一〇〇、〇〇〇円の支払を求める。
第三答弁
一、請求原因第一項中、増井貫行が被告の指揮監督の下に被告所有の自動車を運転し被告の家業に従事していたことは否認するが、その余の事実は認める。増井貫行は当時、秋田市茨島町所在二興金属株式会社に就職の予定で、そのため専ら小型自動四輪車の運転技術修得のため池上自動車教習所に通つていたものであつて、被告の家業には従事していなかつた。被告は次男増井泰司にだけ右自動車を運転させ他の者にはその運転を厳禁していたが、偶々、増井泰司が右自動車を使用後、点火装置の鍵をそのままにして被告宅門内玄関前に停車させておいたところ増井貫行が被告の不在中に好奇心から右自動車を運転し、約一キロメートル走行させての帰途本件事故を発生させたものである。
二、同第二項中増井貫行運転の自動車の速度および荻野庫三との接触部位が原告ら主張の如くであることは否認するがその余の事実は認める。右速度は二五ないし三〇キロメートル以下であり、荻野庫三との接触部位は車体後部であつた。
三、同第三項の事実は認める。
四、同第四項中増井貫行が運転資格を持つていなかつたこと、本件事故により荻野庫三が死亡したことは認めるが荻野庫三が交叉点の手前で一時停止し、自動車の進路を予め充分見きわめ安全を確認したうえ交叉点を通過しようとしていたこと、増井貫行が原告ら主張の如き注意義務を怠つて無暴運転をなしたとの事実は否認する。
五、第五項中被告が本件事故の際増井貫行の運転していた自動車の所有者であり、当時自己のために右自動車を運行の用に供していた者であることは認めるがその余の主張は争う。保障法第三条に所謂「自己のために自動車を運行の用に供する者」とは抽象的、一般的な地位を指称するものではなく、具体的に事故発生の原因となつた運行について支配力を有し、かつ、その運行による利益を自己に帰属せしめることのできる者をいうと解するのが正当であるところ、前記のとおり本件事故は被告とは何等雇傭関係のない増井貫行が無断で前記自動車を運転した結果発生させたもので、右運転は被告のためにする運行とはいえないから、これによつて発生した本件事故の損害につき、被告は保障法第三条所定の責任或いは民法第七一五条第一項所定の使用者としての責任を負うものではない。
六、第六項中被害者の余命年数が原告ら主張のとおりであることは認めるがその余の事実は争う。
第四抗弁
一、保障法第三条但書の免責要件の主張
本件事故発生当時、増井貫行は運転資格こそなかつたが前記のとおり自動車運転技術修得中で、既に昭和三一年九月、第二種運転免許を受けていた関係もあつて自動車の運転技術に習熟していたし、本件事故発生に関し同人には何等不注意な点がなく、本件事故は全く荻野庫三の過失にのみ基くものである。即ち増井貫行は前記自動車を運転してB道路を進行し本件事故現場である交叉点に差し蒐つた際、時速二五ないし三〇粁以下に減速して略々右道路のセンター・ライン寄りの線上を走行していたところ、自転車に乗つてA道路を進行して右交叉点に差し蒐る荻野庫三を約七・五米手前で認めたが、右A・B両道路の広狭、その交叉状況及び当時の双方の位置からして当然同人が一時停止して増井貫行運転の自動車を優先進行させるべきであつたし、かつ、増井貫行の運転経験からすれば、荻野庫三が一時停止したならば、そのまま進行しても何等事故発生の懸念なく右交叉点を通過できる距離であつたから、若干減速したまま前進したところ、意外にも同人が一時停止を怠り、しかも、増井貫行運転の自動車の進行方向に向つて優然進行して自ら右自動車の車体後部に接触したものであるから増井貫行には何等注意義務を怠つたところなく、本件事故は全く荻野庫三の過失に基くものである。しかも、被告は前記の如く増井泰司以外の者に対し前記自動車の運転を厳禁していたものであるから、本件事故による損害の賠償義務を負うものではない。
二、過失相殺の主張
仮に、被告に損害賠償責任があるとしても、前記の如く本件事故発生は荻野庫三の過失に基くこと大なるものがあるから損害賠償額を算定するについて右過失を相当程度斟酌されるべきである。
第五立証
原告らは甲条一ないし第七号証を提出し、証人早坂哲夫、同阿部正己の各証言、原告荻野浩本人尋問の結果及び検証の結果を援用し、乙号各証の成立を認めた。
被告は乙第一ないし第三号証を提出し、証人植竹弘次、同増井徹の各証言及び被告本人尋問の結果を援用し、甲第一ないし第五号証の成立を認め、その余の甲号各証の成立は知らない、と述べた。
理由
一、被告が原告ら主張の事業を営み、トヨペツト五四年型自動四輪貨物自動車を所有し、自己のために右自動車を運行の用に供していたこと及び被告の三男増井貫行が右自動車を運転して原告ら主張の日時頃、主張の場所において荻野庫三に衝突し、同人を頭蓋内損傷の傷害により死亡するに至らしめたことは当事者間に争がない。
二、原告らは第一次の請求として保障法第三条本文に基き本件事故による損害の賠償を求めるものであるが、被告は本件事故は被告とは何等雇傭関係のない増井貫行が無断で前記自動車を運転した結果発生させたものであるとして賠償の責任を争うので、先ずこの点から判断するに、成立に争のない乙第二号証、証人増井徹の証言及び被告本人尋問の結果を綜合すれば、本件事故発生当時、被告は次男増井泰司を前記自動車の運転に従事させていたが、増井貫行を同自動車の運転に従事させてはいなかつたこと、ところが、偶々増井泰司が前記自動車を使用後、点火装置の鍵をはずし去らず、そのままにして被告宅玄関前路上に停車させておいたところ、当時自動車運転技術修得のため池上自動車教習所に通つていた増井貫行が好奇心から無断で右自動車を運転して約一粁走行しての帰途本件事故を発生させたものであることを認めることができ、原告荻野浩本人尋問の結果により成立を認めることのできる甲第六号証は被告の事業が家族労働力を主体とした小規模の個人企業で、被告の三男までが右事業に従事している旨の記載が認められるにとどまり、前記認定を覆すに足りず、他に適確な証拠はない。ところで、保障法第三条は自動車事故による被害者の保護を図るため民法の不法行為の要件を著しく緩和し、「自己のために自動車を運行の用に供する者」に対し、事実上無過失責任に近い責任を認めたが、これは自動車事故は自動車の運行によつて或る程度不可避的に発生する特殊な危険であるから、「自己のために自動車を運行の用に供する者」はその運行自体において既に抽象的、一般的にその危険を有しているものといえるし、又、通常その運行による利益を享受する地位にあるものであるから、若しその危険が具体化して損害が発生した場合にはその者に損害賠償の責任を負担させることが社会的に妥当で、衝平の観念にも合致するとの所謂危険責任及び報償責任の思想に基くものと解せられる。従つてこのような立法趣旨に照らせば、保障法第三条に所謂「自己のために自動車を運行の用に供する者」とは抽象的、一般的にその地位にある者を指称し、同条本文は「自己のために自動車を運行の用に供する者」がたまたま第三者にその自動車を無断で運転され、その結果事故が発生した場合にも、なお、右第三者との身分関係その他により抽象的、一般的にその地位にあると認められるときは、その者に対し右無断運転行為により他人に蒙らしめた損害を、右地位に抽象的、一般的に伴う危険の具体化及び自動車運行による利益享受の過程において他人に加えた損害と評価して右損害を賠償する責任を免れしめない趣旨と解するのが相当であるところ、前記事実によれば増井貫行は被告に無断で前記自動車を運転したもので、これを以て具体的に被告のためにする運行と認め難いにせよ、なお、被告と増井貫行との身分関係等からして、被告が自己のために前記自動車を運行の用に供する地位にあつたことが明らかであるから、被告は同条但書の免責要件を立証しない限り、本件事故による損害賠償の責任を免れることができないというべきである。
三、次に保障法第三条但書の免責要件の存否について判断するに、同但書は「自己のために自動車を運行の用に供する者」が免責要件のすべてを立証した場合に限り損害賠償の責任を免れることを規定するが、被告は右免責要件のすべてに亘る主張をしないから被告の抗弁は既にこの点において失当として排斥を免れないものであるが、なお、被告主張の点を判断するに、本件事故現場附近の状況が請求原因第三項のとおりであることは当事者間に争がなく、証人早坂哲夫(一部)、同阿部正己、同植竹弘次、同増井徹(一部)の各証言及び検証の結果を綜合すれば、本件事故発生直前、荻野庫三は歩行者と同じ程度の緩い速度で、やや俯き加減の姿勢で自転車を運転し、A道路から一時停止することなく直ちに本件事故現場である交叉点を通過しようとする態勢にあつたこと、増井貫行は前記自動車を運転してB道路を品川方面から蒲田方面に向つて、時速約三〇粁の速度で走行して来て右交叉点の手前に差し蒐つた際、荻野庫三が別紙見取図記載イ点にいるのを認めながら、減速せず、漫然、そのまま進行して同ロ点において右自動車バンバー左前部附近を荻野庫三の自転車に衝突させたが、増井貫行は荻野庫三が右イ点にいるのをB道路上約二九・〇五ないし三五・六九米手前において認めていた(右イ点からロ点までの距離は約五ないし六米で、当時、荻野庫三が自転車を運転していた速度は歩行者と同じ程度、即ち経験則によれば時速約五粁(秒速約一・四米)であつたから、同人が右イ点からロ点まで進行するに要した時間は三・五ないし四・三秒となり、他方その間に増井貫行が進行した距離は時速約三〇粁(秒速約八・三米)としても約二九・〇五ないし三五・六九米となる)こと、しかしながら、増井貫行はその運転する自動車の速度を減速して徐行し、或いは警音器を吹鳴する等の措置をとることなく、そのまま同一速度で進行してその運転する自動車のバンバー左前部附近を荻野庫三の自転車に衝突させ、同人を路上に転倒させたこと、並びに事故発生を直感した同乗車から「ブレーキ」と注意されて急遽把手を右に切ると同時に急停車の措置を講じ、右ロ点から一六・三ないし一八・二米進んだB道路北側歩道別紙見取図記載ハ点に左側車輪を乗り上げた状態で右自動車を停止させたことを認めることができ、証人早坂哲夫の証言中「被害者が交叉点の手前歩道中間位の辺で一度止まつたように見えた。」との点は遠方から望見した所見たるに止まり、又、証人増井徹の証言中「自転車と衝突した箇所は自動車の前部ならばすぐに気がつく筈ですから左前バンバーではないと思う。」「後部に衝突したらしいと感じた。」との点は単なる推測にとどまり、いずれも証人植竹弘次の本件事故目撃状況の証言と対比して措信できず他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
右認定の如き状況の下において、荻野庫三がA道路から一時停止することなくそのまま進行して本件事故現場である交叉点を通過する惧れは通常充分に予知せられるところであるといえるから、増井貫行はB道路を進行して右交叉点の手前に差し蒐つたときは、予め荻野庫三との衝突を未然に防止する措置を容易ならしめるため、直ちに減速して徐行に移り、同人の態勢に充分の注意を払い、適宜、警音器を吹鳴して警告し、危急に臨んで急停車する等事故の発生を防止するよう万全の措置をとるべき注意義務があることは多言を要しないところであり、従つて、増井貫行は以上の義務を怠り、漫然同一速度で進行して、危急に臨んで何等事故回避に必要な措置をとることなくして本件事故を発生させたものと認められるから、本件事故は増井貫行の右自動車運転上の過失によるものといわざるを得ず、同人の自動車運転に過失がなかつたとの被告の主張は理由がない。尤も、A道路から前記交叉点を通過しようとする者はB道路とA道路とがいわゆる主道と枝道の関係にあるから、旧道路交通取締法第一八条第一項所定の一時停車するか又は徐行してB道路にある車馬等に進路を譲り交通の安全を期すべき義務があり、荻野庫三は右義務を怠り前記のとおり交叉点を通過中本件事故に遭遇したものと認められるから、同人の過失は本件事故の一因をなしたものといえるが、前示増井貫行の注意義務は荻野庫三の右注意義務と相排斥するものではなく、荻野庫三の過失は後記過失相殺の問題として損害賠償の額を算定する際に斟酌されるに過ぎず、結局増井貫行の過失は免れ難いものといわなければならない。なお、前記認定した事実(理由第二項)によれば増井貫行が前記自動車を運転し得たのは運転者増井泰司が右自動車を離れるに当つて旧道路交通取締法施行令第三五条所定の点火装置の鍵をはずし去る措置を怠つた過失によるものと認められ、右過失は運転者の自動車の運行に関する過失というべきであるから、被告が仮に主張の如く増井泰司以外の者に自動車の運転を厳禁していたとしても、保障法第三条但書に掲げられる「自己及び運転者が自動車の運転に関し注意義務を怠らなかつた」ものとは認め難い。従つて、以上いずれの点からしても被告の抗弁一は理由がなく、被告は保障法第三条に基き本件事故による損害賠償の責任を有するものといわねばならない。
四、そこで荻野庫三及び原告らの蒙つた損害について判断する。
(一) 荻野庫三の得べかりし利益の喪失による損害及び慰藉料
(1) 同人が原告ら主張の如き医業に従事し、死亡当時満六六才の男子で、将来なお一〇年の余命を有するものであることは当事者間に争がなく、原告荻野浩本人尋問の結果により成立を認めることのできる甲第七号証(昭和三三年度所得税確定申告書控)に右本人尋問の結果を綜合すれば、荻野庫三は昭和三三年度所得税確定申告(青色申告)に当り、株式配当金二七、六二五円及び恩給六四、五一四円を含めて年間所得金額を金九八七、五七五円としていることを認めることができ成立に争のない甲第五号証(昭和三三年度所得税青色申告決算書)は前顕甲第七号証と対比して措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はないから、特段の事情のない限り、同人がその余命年数を毎年医業に従事し右と同程度の収益を挙げることができたであろうことは容易に推認できるところである。そして、昭和三四年一月現在の東京都家計調査報告の第二表中「実収入階級別一ケ月平均総収入総支出(区部)」によれば前記認定の年収額に最も金額の近い月収額金六〇、五一八円(年収額に直すと金七二六、一九六円)の標準世帯における一人当りの生計費は金一二、六九七円であることを認めることができるから、荻野庫三の年間生計費は右標準世帯における一人当りの生計費を基準としてその一年分に相当する金一五二、三六四円と推定でき、又、前記認定の年収額に対する所得税額は当時施行の所得税法第一五条の税率に従つて計算すると金一四三、二二五円(右年収額から社会保険料控除分金九〇〇円、生命保険料控除分金一三、三九〇円、扶養控除分金一一五、〇〇〇円、基礎控除分金九〇、〇〇〇円合計金二一九、二九〇円を差し引き、課税される所得金額七六八、二〇〇円を算出し、簡易税額表により右金額に対する税額一五三、七五〇円を求め、右税額から不具者控除分金五、〇〇〇円及び配当控除分金五、五二五円合計金一〇、五二五円を差し引いた額)となることが明らかである。従つて、右認定の年収額から右認定の年間生計費及び所得税額を控除した一年間金六九一、九八三円の割合による将来一〇年間の純益金六、九一九、八三〇円が荻野庫三の将来得べかりし利益であり、同人はその死亡により右得べかりし利益を失い同額の損害を蒙つたこととなるが、右金額をホフマン式計算方法により一年毎に年五分の割合の中間利息を控除して本件事故発生当時における一時払額に換算すると金五、五〇五、二五四円(円未満四捨五入)となることが計算上明らかである。そして本件事故の発生については前示のとおり同人にも過失があつたのであるから右過失を斟酌し減額しても、なお損害額は原告らが本訴において請求する金一、一〇〇、〇〇〇円を下らない額と認めるのが相当である。
(2) 又、同人が本件事故により不慮の死を遂げ精神的、肉体的に甚大な苦痛を蒙つたことは容易に推認できるところであるから、その慰藉料額は本件事故の状況、当事者間に争がない同人の年令、職業、社会的地位その他諸般の事情を考慮し同人の前示過失を斟酌し減額しても、なお原告らが本訴において請求する金一〇〇、〇〇〇円を下らない額と認めるのを相当とする。
(3) 原告荻野澄江が荻野庫三の妻、その余の原告らが子であることは当事者間に争がないから
(イ) 原告荻野澄江は荻野庫三の有した右損害賠償請求権及び慰藉料請求権の各三分の一に相当する金七〇〇、〇〇〇円及び金三三、三三三円(円未満四捨五入)を
(ロ) その余の原告らはそれぞれ荻野庫三の有した右損害賠償請求権及び慰藉料請求権の九分の二に相当する各金四六六、六六六円及び金二二、二二二円(円未満四捨五入)を
相続により取得したことが明らかである。
(二) 原告らの蒙つた精神的苦痛に対する慰藉料
原告らが荻野庫三の妻或いは子として同人の本件事故による不慮の死亡によつて甚大な精神的苦痛を蒙つたことは本件口頭弁論の全趣旨に照らして明らかであるから本件事故の状況、当事者間に争がない原告らの身分関係その他請般め事情を考慮し、その慰藉料額は原告らが本訴においてそれぞれ請求する
(イ) 原告荻野澄江に対しては金二〇〇、〇〇〇円
(ロ) 原告荻野浩に対しては金一五〇、〇〇〇円
(ハ) 原告荻野健美及び同寺山久子に対しては各金一〇〇、〇〇〇円
をいずれも下らない額と認めるのを相当とする。
五、以上により、被告は原告らに対し、原告らがそれぞれその相続分に応じて取得した前示荻野庫三の有した損害賠償請求権及び慰藉料請求権(前項(一)の(3) の(イ)、(ロ))並びに各固有の慰藉料(前項(二)の(イ)、(ロ)、(ハ))を支払うべき義務があるものといわねばならない。
よつて、いずれも前記認定の金額の範囲内において、被告に対し、原告荻野澄江が前項(一)の(3) の(イ)の損害賠償請求権のうち金三六六、六六七円、同慰藉料請求権のうち金三三、三三三円(以上、円未満四捨五入)、同(二)の(イ)の金二〇〇、〇〇〇円合計金六〇〇、〇〇〇円、原告荻野浩が前項(一)の(3) の(ロ)の損害賠償請求権のうち金二四四、四四四円、同慰藉料請求権のうち金二二、二二二円(以上、円未満四捨五入)、同(二)の(ロ)の金一五〇、〇〇〇円合計金四一六、六六六円、原告荻野健美及び同寺山久子がそれぞれ前項(一)の(3) の(ロ)の損害賠償請求権のうち各金二四四、四四四円、同慰藉料請求権のうち各金二二、二二二円(以上、円未満四捨五入)、同(二)の(ハ)の各金一〇〇、〇〇〇円合計各金三六六、六六六円の支払を求める本訴請求はいずれも理由があるからこれを認容し(原告らが不可分的に金一、二〇〇、〇〇〇円の支払を求める請求部分については、原告らが前示のとおりそれぞれ権利を有する可分債権と認める各自の相続部分に按分してこれを認容する)、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を、仮執行の宣言について同法第一九六条を各適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 近藤完爾 池田正亮 高瀬秀雄)
図<省略>